松屋で寝るおじさんとメダルをやるおじさんは哀しい

 

喜怒哀楽。

4つの感情をもっとも揺さぶるシチュエーションは、人それぞれ異なるとおもう。

 

 

今回は「哀」について書きたい。


俺がいままでで一番哀しさを感じた光景は2つ。

「早朝の松屋で寝てるおじさん」と「大晦日にメダルゲームをやってるおじさん」に、過去最大の哀しさを感じた。

 

 

 

なぜ、おじさんが松屋で寝てると哀しいのか?

 

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新小岩の駅前の松屋、そのカウンター寝てるおじさんがいた。

 

まだ繁華街の松屋ならいい。

仲間と呑んで、酔いつぶれたのだろう。

そこにはほのかなハッピーの残り香がある。 

 

でも新小岩はダメだ。

あそこは住宅街。

たぶんこのおじさんは1人で呑んでる。

いや、呑んでさえいないのかも。

 

松屋のカウンターテーブルほど寝るのに適してない場所はない。

慌ただしいし、狭い。

あそこで寝るということは、もう眠くて眠くて仕方がないんだ。

 

そんなに眠いんだから、きっと松屋もたいして食べたくなかっただろう。なんとなく習慣で入ってる。

お腹ペコペコで食べる松屋は幸福なものだが、食べなくてもいい松屋を食べてしまったときは虚しい。自己嫌悪感がある。

 

睡眠欲も食欲も満足に充たせていないおじさん。

なんとなく無意識下でとってしまった行動が「松屋に入る」だったのも、普段の生活が透けてみえて哀しい。

せめてもう少し眠りやすい、マクドナルドで寝てほしい。

 

 

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大晦日にメダルゲームやってるおじさん見たときも哀しかった。

 

メダルゲームは虚無だ。

当たっても当たっても得がない。

パチンコやパチスロならまだ賭博性があるけど、メダルは当たるとむしろ時間がとられるだけ。

純度100%の暇つぶし。

 

「そんな虚無を、なにも大晦日に」と哀しさがある。

大晦日が虚無なら、正月だって虚無だろうし、ゴールデンウイークもお盆も虚無だろう。

 

 

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それとはまた別の件。

学生の頃、東京タワーにあった昔っぽいゲームコーナーで、おばちゃんがテトリスをやってた。

たぶん家族で来たんだとおもう。お母さんっぽい身なりだったから。

お父さんが子どもをつれてお土産でも見てるのか。暇をつぶしていた。

 

家族で東京タワー、幸せそうな響きだが、おばちゃんがテトリスをやってるだけでなぜか無性に哀しかった。

 


俺が中学生くらいの頃、父母の世代はなぜかドクターマリオゲームボーイでやってる人が多かった。なんかあれも哀しかった。

「もっとバイオハザードとかやれよ。なんでドクターマリオだよ」とおせっかいにも思ってた。

流行りのゲームでもなく、勢いのあるアクションでもなく、ドクターマリオをとろくさやるさまに老いを見て寂しかったのかもしれない。

 


俺もそろそろぷよぷよをやってたら、10代20代の子に「哀しい」と思われてしまうのだろう